帽子屋『ザ・マッドハッター・ニセコ』沼尻賢治さん

人との関わりが新たな扉を開ける

手作り帽子をバックにした沼尻さん
インタビュー日:2020年1月29日 聞き手 広報広聴係 大野

ニセコにやってきたわけ

ニセコ町には、この地域唯一のハンドメイドの帽子屋さんがあります。2012年に東京からニセコ町に移住した沼尻さんです。沼尻さんは、東京で雑誌、企業PR誌、機内誌などの編集に携わり、活躍されていましたが、ニセコのパウダースノーに魅せられて、ニセコ町に移住。
 
ニセコ移住にあたって自分で何か仕事を作り出す必要があると考え、それまでは趣味で作っていた帽子を仕事にすることを決めました。ハンドメイドの帽子屋はほかにやっている人がいなかったので、だれにも迷惑をかけないことも決め手でした。
 
沼尻さんは、お店は構えていませんが、自宅のアトリエで帽子を制作し、ニセコ地域のイベントでの出張受注会やインターネットを通じて手作りの帽子を販売しています。デニムやハリスツィード素材を中心に、どちらかというと頑丈で実用的なデザインを得意としています。
手作り帽子
2011年3月11日、沼尻さんは東京で働いていました。東日本大震災がニセコ移住の直接的なきっかけではありませんが、それまでの生活を考え直す一因になりました。あれだけの大惨事を経ても変わらない(ように見える)社会に対して自分の中の違和感が次第に大きくなっていきました。
沼尻さんの著書『ニセコの12か月』にはこのように記載されています。
「人はいつも試されている。誰に? それを「誰」としてもかまわないのだけれども、実際は『自分に』だと思う。自分は自分自身に試されている。僕の中に蓄積された言いようのない違和感に目を瞑(つぶ)るのか、否か。僕は僕に試された。
 僕のニセコ移住は被災地の復興にはなにも貢献しない。けれども、僕は僕自身のなにかを変える必要を感じた。……(略)……僕は自分の生活を見直し、そのスタイルやサイズを調整しなければいけなかったのだと思う。」
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『ニセコの12か月』『A Year in Niseko』

◇『ニセコの12か月 A Year in Niseko』(2019年8月)株式会社ルピシア発行
(帯より)長年勤めた会社を辞め、東京からニセコへ移住した夫婦のリアルライフ。家探しの困難、手探りの起業、日々のスキー、不慣れな雪国生活、訪れる春の喜び、美味しい農産物、愛犬との出会い、雪、太陽、雨、風、緑、星……巡りゆく季節の中、自然に歩調を合わせた生き方を選んだ著者のニセコ讃歌。

ニセコとの出会い

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写真提供:沼尻さん

10年ほど前、沼尻さんは機内誌の取材で初めてニセコを訪れました。その時にパウダースノー、スキーを楽しむ人たちに出会い、3年ほど冬にニセコに通いました。そのうちに本気の家探しがはじまり、不動産会社を通して、ブルーハウスに出会いました。最初の4年間は賃貸で、その後紆余曲折を経て、その家を買い取り、今に至ります(詳しくは『ニセコの12か月』で!)。
家を買い取ったあとに、沼尻さん夫妻は犬を飼い始めました。犬を飼い始めてからは、近所の人との交流が生まれるなど、生活が一変したそうです。

住んでみて思うのは、ニセコは移住者が多い土地で、また移住者に寛容な土地だということです。移住の先人に助けられたことも多く、沼尻さんは、みな同じ経験をしてきているので、そのときどきで移住者が何に困っているのかがわかるのではないかと考えています。

沼尻さんへのインタビュー

『ニセコの12か月』にも書かれていますが、改めてニセコへ移住した経緯について教えてください。

東日本大震災があって何もかも失った人も多かったのに、自分の生活がそのまま続いていることに言いようの無い違和感が募りました。サラリーマン生活が長かったのですが、「職に縛られず、自分の意思で自分は仕事を辞められるのか?」という自戒を常に持っていたこともあり、一度職を捨て、移住を実践しました。今はそれが出来てよかったと思っています。奥さんも私も、東京での仕事をやめるのにちょうどタイミングがよかったことも幸いしました。仕事を辞めれば、それまでの収入を失うわけですが、一瞬にして家屋や命まで奪われた方々のことを思えば、自分が失ったものなど無いに等しいと思います。
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本当に何も調べずに来たので、実は、ニセコ町に来てから「地域おこし協力隊」の制度を知って、役場に「協力隊に応募したい」と電話したこともあります。「協力隊は都市部から地方へ生活の拠点を移し、その地域への定住を図るものなので、すでにニセコ町に住んでいるなら応募できない」といわれてしまいました(笑)。でも、協力隊制度はいい制度だと思います。まず役場という場に身を置いていろんな人と知り合うことができます。

実際に移住して苦労したことはありますか。

家を探すときは大変でした。不動産の価格も思ったよりも高いと思いました。しかし、今は1回のチャンスを逃さなくてよかったと思います。

『ニセコの12か月』を発行することになった経緯を教えてください。

ある日、JRニセコ駅構内にある『茶房ヌプリ』の裕子さんからニセコに企業進出したルピシアが文章を書ける人を探していると話があり、2018年の春に初めてルピシアの水口会長にお会いしました。ルピシアは、以前私が副編集長として関わっていたANAの機内誌『翼の王国』に広告を出していたこともあり、私がどのような雑誌をつくるのかはなんとなくご存じでした。「芸は身を助ける」ではありませんが、こうして旧職のスキルを活かし、ルピシアのカタログ製作をお手伝いするようになりました。
ルピシアの仕事に関わるようになったある日、水口会長から「沼尻さん、『南仏プロヴァンスの12か月』のような本を書く気はありませんか?」と聞かれました。取り寄せて読んでみましたが、「さて、自分は何をどのように書こうか?」と見当がつきませんでした。
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そんな時、友人のジャーナリストが、「沼尻さんが『翼の王国』の副編集長といっただれもがうらやむ仕事を50歳で辞めて、北海道のニセコに移住したという価値観は何か?を読者は一番知りたいのではないか」と助言をくれました。そこで、自分が毎日の生活でどのようなことを考え、何が好きで何を感じているのかを書こうと思いました。今まで自分自身のことは書いたことはなかったので、自分のことを書いて読者が喜んでくれるかはわかりませんでしたが、やってみようと。
ただ、お引き受けしたものの、水口会長には「1年待ってほしい」とお願いしました。あとから会長をよく知る人に聞いたら、何事にもアクティブな水口会長が1年も待つことは珍しいそうです。しかし、本の執筆に1年の時間を与えてくださいました。しかも、ありがたいことに、文章に大きな修正が入ることもありませんでした。2019年8月に『ニセコの12か月』を出版し、その後、水口会長の意向もあり、英語版を4か月の短期間で2019年12月に出版しました。英語版出版後に外国人からメールで問い合わせがきたりするなど、結構反応があります。
今まで、ニセコ在住の写真家が出すニセコの写真集はありましたが、書籍としてのニセコ発信は初めてではないでしょうか。新しいニセコの魅力の発信に携われて幸せに思います。

ハンドメイドの帽子屋を始めようと思ったのはなぜですか。

ニセコに移住すると最初に決めて、仕事は何か手で作ることをしたいと思いました。今までしていた編集の仕事では、他人が作った素材を整理する仕事だったので、今度は自分自身で一から作り出したいと思ったのです。子どものころから工作が好きでしたから、帽子作りは工作のようなもの。服飾の学校を出ていることもあり、服飾関係の仕事に戻るような感覚もありました。
現実的な話になりますが、ハローワークの求人情報を見ても自分の年齢やスキルだと月12万円~15万円くらいしか稼げないことがわかりました。それなら好きな帽子づくりで起業しようと思いました。一人なので生産能力には限りがありますが、お金は生活できるくらいあれば十分です。
 
帽子づくりは素人でしたし、店舗もないのでまったくダメならあきらめましたが、そうでもありませんでした。初めて手作り帽子の受注会を自宅で開催したとき、知り合いが友人を連れて来てくれただけでなく、知り合いでない人たちも来てくれました。実は受注会の前に、北海道新聞倶知安支局の取材があり、ちょうど受注会の直前に絶妙なタイミングで記事が掲載されたのです。新聞記事をみて興味を持った地元の人たちがたくさん来てくれました。そんな幸運が重なり「帽子屋としてやっていけるかも」と思えるようになりました。
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写真提供:沼尻さん

倶知安駅前の『SPROUT』で帽子の出張受注会をしたときも、フェイスブックで出張受注会があることを知って札幌と小樽から来てくれた人が、後に札幌のデパートでの出張受注会につないでくれました。
今は、年に2~3回札幌、年に1回東京で出張受注会をしています。地元のイベントにもできるだけ参加しています。まずは地元のいろんなイベントに出店してみて、どのような人が来ているのか、イベントの雰囲気を感じるようにしました。自分の作品とイベントがマッチしていれば継続して出店しています。
また、毎年秋にヒラフのホテル『シャレ―アイビー』で開催される「ニセコクラフトアートフェスティバル」は、売れるか売れないかではなく、ニセコ周辺で物作りをしている作家さんたちに会えるのが楽しみなイベントです。
大勢の人がチャンスをくれて、帽子屋を続けることができました。いただいたチャンスを生かせるよう努力するのは自分ですが、みんながさりげなく応援してくれて生活ができています。
ニセコ町は、わずか人口5,000人の町ですが、常に何か新しいことが起きていて、話題に事欠きません。5,000人の町なら一人を経由すると全員知り合いです。2,000人の真狩村なら全員と直接知り合えます。これは都会にはない面白い体験でした。
「沼尻さんは知り合いが多いよね」と言われますが、帽子を販売することで多少知り合う機会は普通の人より多いと思います。手作り帽子は「つくる体験」をお客さまに提供することができます。私は、帽子だけでなくニセコの体験も提供したいと考えています。例えば、ニセコの美味しいお店や面白い体験なども帽子を買いに来てくれた方に紹介します。
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写真提供:沼尻さん

靴は0.5センチ刻みでサイズがあるのに、帽子はMサイズとLサイズがあるくらいです。サイズが合わない帽子に我慢している方は少なくなく、個人個人の頭のサイズにあわせてオーダーメイドで帽子を作って差し上げると、想像以上に喜ばれることもあります。年に数人、マニアックなお客様もいて、いろんな注文を出してくれ勉強になります。他にも「気に入っていたけど古くなったので作り直してほしい」、「デザインが気に入っているけどサイズがあわないのでサイズをあわせてほしい」というニーズにも可能な限り、お応えするようにしています。
 
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帽子の生地はハリスツイードにこだわっています。ハリスツイードを生産しているスコットランドのハリス・ルイス島を訪れ、生産現場も見学しました。生地が生まれ育った背景を踏まえ、ニセコでハリスツイードを使い続けることに意味づけが出来たらいいなと思っています。私の帽子屋では100種類以上のハリスツイードから好きなものを選べます。そんなことができるのは日本ではここだけだと思います。
ニセコに来た当初から、私の中に「ニセコの魅力の構成要素」というイメージがありました。ニセコがニセコであるためのポイント。例えばニセコといえば、『茶房ヌプリ』の黒カレー、『高野珈琲』のコーヒーなど、人それぞれ違うと思いますが、それぞれのニセコの魅力があります。ニセコに行けば『ザ・マッドハッター・ニセコ』の手作り帽子がある、という存在になることを目指しています。

今のニセコについて何か思うことはありますか。

今ニセコ地域ではたくさんの開発が行われようとしています。これらの開発の審査はどのように行われているのでしょうか。ニセコは少し雪が降らないだけで観光客数が減ります。中国でウイルス性の肺炎が流行すれば中国からの観光客が来なくなります。ある日、パタッと観光客が来なくなることもあるわけで、そのときに最低限の損失で済むようにレジリエンス(立ち直る力)を高めておくのが町役場の役目だと思います。

移住を考えている人に何かアドバイスをいただけますか。

移住を考えているだけでは何も変わりません。思っているなら早く行動を起こすことが重要です。その土地に身を置くことで、初めてその土地の人と関わることができます。これは遠方で悩んでいても出来ないことです。私の場合も人との関わりが、未知の扉を開き、結果的に自分を助けてくれました。
私は、札幌や東京での出張受注会や書籍の執筆など多くの人のおかげでチャンスをいただいてきました。それを形にして次につなげるのは自分の責任ですが、こうしたことは外から見ていては絶対に起きないことです。
遠くから見ているだけでは人と知り合えません。ぜひ中に入ってきてください。
インタビューに答える沼尻さん

このページの情報に関するお問い合わせ先

ニセコ町役場
TEL:0136-44-2121
FAX:0136-44-3500