狩太神社 玉置彰彦宮司

インタビュー日:2018年4月13日 聞き手:広報広聴係 坂口

 ニセコ町内にひっそりとたたずむ「狩太神社」。4月も中旬だというのに、まだ残雪がある。鳥居をくぐり、鳥のさえずりを聞きながら歩く参道は思いのほか長く、やがて拝殿が見えてくる。
 造りは質素だ。境内にいると、インバウンドやコンドミニアムといったニセコエリアのイメージを忘れさせ、華やかさと伝統的な何かがみごとに融合していることに気付く。社務所を叩くと、神職である玉置彰彦さんが暖かく迎え入れてくれた。
 
 神職も移住者のひとりだ。彼の経歴はおもしろい。生まれは埼玉だが、父親の仕事の都合により兵庫、東京、メキシコ、バーレーンなどと5回の転勤を繰り返し、高校時代には静岡の全寮制、カナダへの留学を経験している。その後、東京経済大学に入学するも旅にはまり約40ヶ国を巡る。
 その時の体験から日本文化の根幹である神道に興味を持ち、國學院大学に再入学し、比較宗教学を学びながら神職の資格を習得している。その後は、明治神宮にて神職として10年間奉職し、突如としてニセコ町への移住を決めている。移住の決め手は何だったのだろうか?

「一枚の写真がきっかけだった」

 明治神宮での10年間は仕事づくしだったらしい。働き盛りの30代のほとんどを過ごし、厳しくもあったが、神明奉仕を通して様々な経験を積ませてもらったという。仕事は忙しいものの責務を頂きながら充実した時間と学びを得た。
 しかし、明治神宮という巨大でかつ伝統を重んじる組織においては、「守る」ことが優先されると同時に、新しいことに取り組んでいくことが非常に難しくもある。「環境というものは常に変化している。どう変わっていかなければならないか」という自身の姿勢を尻目に、「守る、ということとは何なのか」ということを自問する日々が続いた。そんな矢先に一枚の写真が目の前に飛び込んできた。青々とした牧草が広がる大地の中にそびえる「羊蹄山」だった。

「本当の豊かさって何だろう」

 「神社を継ぐために、ニセコ町に来たんだろう?って、よく言われるんです」と玉置さんはかぶりを振る。一般的には、移住先のことをまず徹底的に調べ、ともかく移住先の「職」を最優先する方が少なくないだろう。でも、玉置さんはそうではないらしい。
 「きっかけは本当に一枚の写真だったんですよ。なぜ移住したのか、と問われれば、ニセコにひきつけられるような感覚があった、呼ばれた気がした、というしかないんです」。
ただ、伏線はあった。数年前からニセコに行った友人などから、「今、ニセコが熱い」ということを耳にするようになっていたのだ。もう一度「今、ニセコに世界中から人が集まっていて、本当に面白いことになっている」という話を耳にしたとき、「あ、これはもう移住するしかないな、と思ったんですよ」と、彼は淡々と語る。繰り返すが、これは転勤ではなくて、転職でもなく、移住なのだ。
 「実際、移住してみて、どうですか、不便さはありませんか?」とけしかけてみた。「東京に住んでいると、確かに便利です。でもあの満員電車や、福島の原発が爆発して自宅待機だっていっているのに、ただただ駅に向かって通勤していく人たちを見て、これは異常だと思いました」。
 「田舎だと、確かに病院だったり、買い物だったり、公共交通機関だったり、不便なことはあります。でも、私は湧き水を汲んできて生活をしている。東京のひとに、湧き水で暮らしているっていったら、それはもううらやましがられますよ」。
 「要はそのひとが何を選択するか、だと思うんです。人生の豊かさに対して優先順位に何を持って来るのか。東京ではお金があるかないかが優先順位の一位になりやすい。でも、豊かさの価値基準って本当は沢山あるんです。そこを選ぶ自由がこのニセコにはありますね」。
ニセコ狩太神社祭

ニセコ狩太神社祭(2017年8月25日)

「ニセコで何ができるのか?」

 実際のところ、玉置さんは、羊蹄庵というそば屋でバイトをしたり、グリーンリーフ(ニセコヴィレッジ)というホテルのフロント勤務、ロッジ運営もしている。
 「土地を知るためにやれる仕事はなんでもやってみた」と話す。その後、様々な仕事の傍ら、当時の宮司の元を訪ね、神社の手伝いを始めている。
半年ほど経ったとき、高齢である宮司から、神社の後継者について話があったという。
 「最初は、断ろうと思ったんです。何年かやって、やっぱりやめます、ということはできない。先人の想いを引き継ぎつつ、発展させていく。神社というのは、100年200年とその先も踏まえ「その心と場」を継承していなかなきゃならない。それほど神社を引継ぐということは難しく、簡単なことじゃない。覚悟が必要なんです。」

「何かを創造するのに最高の町だ」

 それでも、ニセコでやっていこうと決めたのは、「この町には何かを惹きつける引力がある」と思ったかららしい。移住をしてきて、合わなくて、やはり帰ってしまう、という例はある。「それは、その町にコミュニケーションが合う人間がいないからです。でもこの町には農業者もおり、都会でビジネスをやっていた人間もおり、さまざまな国からやってきた人間もいる。外国人がいても何も特別感がなく、ごく普通にそこにいて、ごく自然にニセコ町は受け入れている。こういう具合に、ニセコ町にいる人々も多元的だから、都会からやってきても、コミュニケーションに困ることはない。
 「どんなコミュニケーションも受け入れてくれるミックスカルチャーがあるんです。」「それが、新しい何かを創造していく上で、最も重要な要素だと思う。」

「ここのライフスタイルは最先端だ」

 家から10分も車を走らせれば大自然。「例えばですけど、早朝に出てアンヌプリを登り、山頂で朝日を拝んでから、8時半には神社に戻り仕事もできる。大自然が身近にあり自然とともに生きるライフスタイルがここにはありますよね。」 
 また、玉置さんはニセコ町のオープンな気質についても言及している。「町長に会いたければ、いつでも会える。伝えたいことをいつでも伝えられる。こんなにすごいことはない」。玉置さんはまちづくりの町ニセコ町を「ペンギン村とシムシティ(昔流行したまちづくりゲーム)を足して2で割ったような町」と、独特の言い回しをしているが、要は、異なる文化を持った人間が、オープンな土壌で、自由に語らい、町を作り上げていくことに参加していくことができるし、また自ら作り上げていくこともできる、ということだろう。
 「それから、移住にあたって、仕事は困らないと思います。ただ、雇われるより、自分で作ったほうが面白いと思いますが。仕事があって、コミュニティがあって、湧き水で暮らして、美味しい野菜を食べ、まちづくりに参加していく。ここでのライフスタイルはある意味、最先端だと思う。これだけ魅力ある要素の集まっている町はそうそうありません」。

「この神社を町の魅力ある顔の一つにしたい」

 玉置さんは今後、この神社をどういうふうにしていきたいのか?
 「神社というところは、本当は幼少期の思い出が詰まっているはずなんです。子供の頃、あいつと喧嘩したとか、騒いでいたら神主に怒られたとか、あの子と手をつないで歩いたとか・・・」。確かにそうだろう。記者も幼少期、境内で遊んだ記憶があり、今振り返ると、それがひとつのコミュニティになっていたのかもしれない。
 「しかし、現在ではどうでしょう?この神社は今、そういう場所になっていない」。「もっと人が集まり、思い出と経験を共有し、おじいちゃんから若者、ちびっこまでそれぞれの世代が重なり合う場所であってほしい」。
 玉置さんはこれまでに育んできた人と人の繋がりも最大限に活用した上で、さまざまなアイデアを抱えている。
 例えば、一面雪景色の中での白無垢をまとっての厳かな神前結婚式、参拝者が語り合う境内のカフェ、ニセコならではの自然ワークショップの神社開催、子供たちが集まって来られるようなスノーパークの創造、などなど。どれだけ実現していけるかはわかりませんけどね、と玉置宮司は笑って話す。
 それでも、この町のひとびとの「憩いの場」としたい考えだ。地元の人が集まってくれば、観光地として、ひとつのディスティネーションにもなっていくのではないか?

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