有島武郎について
有島武郎 略年譜
1878年(明治11年)、東京市(現・東京都)生まれ。学習院中等科卒業後、札幌農学校に進学。1903年(明治36年)、アメリカに留学。1906年(明治39年)、イタリアに留学していた弟で画家の有島生馬とともにヨーロッパを遊学する。翌年帰国し、札幌農学校の後身である東北帝国大学農科大学にて教職に就く。またこの時期、武者小路実篤、志賀直哉、弟で作家の里見弴らとともに『白樺』同人となり、作品を発表しはじめる。 1916年( 大正5年)、妻と父を相次いで亡くし、翌年には農科大学を退職。この時期を境に、『カインの末裔』『小さき者へ』『生れ出づる悩み』『或る女』『一房の葡萄』などの作品を発表し、文壇に作家としての地位を確立。小説のほか、童話、戯曲、社会評論、美術評論など多岐に渡って執筆活動を行う。1922年(大正11年)、思想と実生活との一元化を求めて、北海道狩太(現・ニセコ町)に不在地主として所有する「有島農場」を、小作人による土地共有を前提として無償解放。1923年(大正12年)没。
明治11年 1878年 | 3月4日 父・武(たけし)、母・幸(ゆき)の長男として東京に生まれる | |
明治17年 1884年 | 横浜英和学校入学 | |
明治20年 1887年 | 学習院予備科第3年級編入学 | |
明治29年 1896年 | 学習院中等科卒業後、札幌農学校予科5年級編入学 | |
明治32年 1899年 | 学友・森本厚吉の影響によりキリスト教入信を決意。 父母の反対にあう。 父・武が、娘婿・山本直良名義で、マッカリベツ原野(現・ニセコ町)貸下を許可される。 | |
明治34年 1901年 | 札幌独立基督教会入会。 父・武とともに狩太(現・ニセコ町)「山本農場」を初訪問。 札幌農学校本科卒業。卒業後、志願兵として1年間兵役につく。 | |
明治36年 1903年 | アメリカに留学 | |
明治40年 1907年 | 前年にアメリカを出国し、ヨーロッパ各地を周遊し、帰国。 両親とともに札幌および有島農場を訪問。 | |
明治41年 1908年 | 東北帝国大学農科大学予科の英語教師として札幌に赴任。 学内美術愛好団体・黒百合会設立や社会主義研究会に関与。 山本農場を有島武郎名義に変更。 | |
明治42年 1909年 | 遠友夜学校校長に就任。 東京にて陸軍少将神尾光臣の次女・神尾安子と結婚。 | |
明治43年 1910年 | 実弟の生馬と里見弴らとともに雑誌『白樺』同人となる。 札幌独立基督教会退会。 「生れ出づる悩み」のモデル木田金次郎が来訪。 | 主な作品 『老船長の幻覚』 |
大正3年 1914年 | 安子の結核発症にともない、東京に移居。 | |
大正5年 1916年 | 妻・安子(8月)、父・武(12月)死去 | |
大正6年 1917年 | 農科大学退職。以降、多くの作品を発表し、作家としての地位を確立。 「有島武郎著作集」創刊。有島農場で木田金次郎と再会。 | 主な作品 『カインの末裔』 |
大正7年 1918年 ~ 大正9年 1920年 | 主な作品 『小さき者へ』 『生れ出づる悩み』 『或る女』 『惜しみなく愛は奪う』 『一房の葡萄』 『旅する心』 | |
大正11年 1922年 | 思想と実生活の一元化を求め、有島農場の小作人への解放、邸宅・家財処理の意志を表明。 7月18日、有島農場内の弥照神社にて、土地共有による農場無償解放を宣言。 個人雑誌『泉』創刊。 | 主な作品 『宣言一つ』 『星座』 『ドモ又の死』 『小作人への告別』 |
大正12年 1923年 | 6月9日 婦人公論記者・波多野秋子と軽井沢の別荘・浄月庵にて心中。 | 主な作品 『親子』 |
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